情報の海の漂流者

web上をさまよいつつ気になったことをつぶやいています。

twitterで議論中につき、途中でUP後で追記します

この辺の話について記事を書いているのですが、twitter上でちょっと長い文章を引用する必要が出てきたので途中でup。
後で追記します

ここで「負に働く」とされる専門性がなぜ存在するのかについて、以下のように考えることができる.専門家の良心はここで、専門家として2種類の責任の間で引き裂かれるのである.
科学者の責任感の多くは、ジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされている.そして、市民あるいは公共(public)にとって「不信」とみえたものが、実はジャーナル共同体に対する「忠誠」であることが少なからずある.イタイイタイ病における専門家の「負の役割」も、実は疫学の学問としてのレベルにこだわったがゆえの行動と解釈できるのである.
例えばある物質が人体に有害か否かの判定が科学者に求められているとしよう.科学者は、自分の属するジャーナル共同体の基準に照らし合わせて、その基準に合致するには、「まだ実験データが足りない」「きちんとした結果を出すには時間がかかる」と判断するとしよう.これは科学者の責任感が、ジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされていることの当然の結果である.ところがそれを聞いた市民の側は「すぐに結果がほしいのに、結果を出し惜しんでいる」「データを隠しているのでは」という反応をすることがある.ここでみられるのは、科学者の誠実=市民の不信、という悲しい構造である.しかし、ジャーナル共同体概念を用いれば、このことの構造は理解しやすい.市民は、科学者の誠実さが何を守るために生じているのか(ジャーナル共同体における精確さを守るために生じている)理解すべきであるし、そしてそれは専門家としての責任からそうしているのだ、ということは理解すべきであろう.また科学者の側は、市民が求めているものが、自らが誠実さと信じていたもの(ジャーナル共同体における精確さ)とは違うものであることを理解し、ジャーナル共同体への誠実さだけでは、公共の問題に対峙できないことを知る必要がある.
このように考えてくると、専門家個人を「正の役割を果たした人」「負の役割を果たした人」にわけることより、問題解決のシステムのほうを改良することの必要性が示唆される.専門家集団のなかでの科学的厳密性を守る責任と、社会への責任を両立させるシステムである.そのためには、(A)因果の立証がなくても対策の行動を予防的に立てることは可能であり、(B)同時に科学的探求、厳密性の追求は平行して行い、(C)専門家の責任を明確にする、ことである.そうしないと、専門家は2つの良心の間で引き裂かれてしまう
『科学技術社会論の技法』p231〜232

引用した書籍は、科学技術社会論を大学で教育する目的で編集されたもので、2005年に出版されました。
つまり、311の前の書籍です