情報の海の漂流者

web上をさまよいつつ気になったことをつぶやいています。

歴史と神話は区別しなければならない

を読んで、とある小説の一節を思い出した。
引用しよう

「いいか、みんな」
 教師の声が響いた。声は必要以上に大きい。
 教師とはなぜ皆、こうなのだろうと新城は思った。
 様々な目的で訪れる者たちがいる遍学院でああまで大きな声を出すことの是非がわからないのだろうか。あるいは、それが当然の権利だと思っているのか。声が大きければ子供が耳を傾けるというわけではないのに。


「これは御国でいちばん古い時代の遺物だ。
 教師はさらに声量をあげて説明した。
 柵で仕切られた展示区画には、ぼろぼろになった全長十五間ほどの船が置かれている。
「皇紀初年、明英大帝さまが内地へ臨まれた時、御乗りあそばされていた御座船である。明英大帝さまは知っているな? 誰かこたえてみろ」
 はいはいと子供たちが元気よく手をあげた。興奮し、狂したように叫んでいる子もいる。
「よし、背坂」教師は一人の子供にうなずいた。
「はじめての、皇主陛下、です!」背坂と呼ばれた子供はこたえた。」
「そうだ。」教師はさらに声を大きくしてうなずいた。
「御国は明英大帝さまが開かれた。よく覚えておけ! いまの栄えはこの小さな船から始まった。
 聴くに耐えない。新城はあからさまに気分を害した表情を浮かべ、そこを離れた。


 教師が子供たちに伝えていたのは神話であり、歴史ではない。就学年齢以前から駒城の蔵書を気ままに読みあさっていたかれにとり、そうした意図的な混同は不愉快に過ぎた。
 国家は言うまでもなく幻想を共有する人々の集団だが、だからといって幻想を事実として教え込むのは決して褒められたことではない。
 ”むかしばなし”と”ほんとうのおはなし”は、子供が理解できるにしろできないにしろ、明確に区別して伝えてやらねばならない。たとえ史実を知ったところで神話の価値はいささかも減ずるものではない。


この文章は僕の意見をほとんど代弁している。
史実と神話は教育の場において区別されなければならない。
民族教育においては史実と神話を両方教える場面も必要かもしれないが、そこに「歴史」という名を使うべきではない。
僕はそう考える。


歴史学というのは史実を積み重ねていく学問である。
(史的唯物論的すぎるとかアナール学派ならーみたいな話は今回は触れない)


今から、179万5000年ほど前、太陽神の孫がこの地に降り立った。
その子孫の神武天皇が紀元前660年に即位した。
神武天皇は127歳〜137歳まで生きた。
なんてことを歴史教育の場で教えるわけにはいくまい。
衛生状態が改善され医療技術も発達した現代であっても110歳まで生きれば、世界最長老クラスである。
ほぼ全員が110歳を超えるとされる初期天皇の生没年は疑わしい。


仮に、天孫降臨について国民に教育する事が必要だとしたら、歴史の授業とは別の新しい科目を作るべきだ。