情報の海の漂流者

web上をさまよいつつ気になったことをつぶやいています。

カギカッコの意味とか「常識」とかについての疑問







(前略)
カギ括弧によって特別な意味を持たせるのはごく一般的に行わけれていることであり、それを理解して読まなければ評論文を読むのは極めて難しくなります。id:ekken氏が(おそらく僕を貶めるためにそのような嘘をついているのでしょうが)そのような嘘をつくことは、カギ括弧には特別な意味をもっていないことが殆どであると誤解させ、結果的に人々の評論文読解能力を低下させるものです。
即刻、ブックマークコメントを訂正し、嘘をついたことを謝罪してください。さもなくば、カギ括弧の利用が個人のローカルルールだという根拠を提示してください。


... >ekken 僕も「特別な意味」を持たせるためにカギ括弧を使うこと... - カギ括弧について - あままこ - はてなハイク

そして

(前略)
僕は昭和40年代の生まれなんだけれども、「文章中にカギ括弧が出てきたら、それは特別な意味がある」なんていう教育を受けた記憶が無いのです。カギ括弧は引用や会話文、書名や曲名などを記す際に使う記号、というのが義務教育におけるカギ括弧の意味だったはず。


念のため確認してみたら、文化庁のWebサイトの中に、「参考資料」として「くぎり符号の使ひ方」(リンク先はPDFです)というのがあって、そこには"カギは、対話・引用語・題目、その他、特に他の文と分けたいと思ふ語句に用ひる"と書かれていました。この資料に上書きされる「カギ括弧には特別な意味を持たせる事がある」という情報は、文化庁のWebサイトからは見つけられなかったので、今でも義務教育の範囲内では変更無いものと思っています。


カギ括弧の意味について:ekken


というながれ。正直良く分からない。
ローカルルールだという根拠を示せという問に対して、公的な資料を示すというのは的確な回答方法だと思いつつも、とりあえずwikipediaから

くぎり符号の使ひ方(句読法)(案)


もともと横書き用読点を「,」とすることはカナモジカイがかなによる横書き用の符号を整備する中で始めたことである[176]。さらに、公的方針の中で横書き用読点を「,」とすることは、1906年(明治39年)に文部省大臣官房調査課が文語体文用に定めた「句読法」(案)を口語文用に作り変える形で作成され、1946年(昭和21年)3月に当時の文部省教科書局調査課国語調査室によって発表された「くぎり符号の使ひ方(句読法)」(案)の「主として横書きに用ひるもの」中で「テンの代わりにコンマを用ひる」と定められたのが始まりである。この「くぎり符号の使ひ方(句読法)」(案)は、「くりかへし符号の使ひ方(をどり字法)」(案)・「送りがなの付け方」(案)・「外国の地名・人名の書き方」(案)とともに発表され、あくまで「案」であって正式決定された方針ではないという位置づけではあったものの、「文部省刊行物の表記の基準を示すために編集」された『国語の書き表し方』[177]など、さまざまな出版物に収録されて広く周知された。この後、「送りがなの付け方」(案)は内閣告示・訓令となり、「外国の地名・人名の書き方」(案)は「外来語の表記」に取り入れられるなどして内閣告示・訓令となったのに対して、「くぎり符号の使ひ方(句読法)」(案)と「くりかへし符号の使ひ方(をどり字法)」(案)は正式決定になることなく案のままにとどまっている。しかしながら、これら二つの案は「公用文や学校教育その他でも参考にされることが多い」としてさまざまな資料に収録されていて[178][179]、案であるとの注記もなくそのまま横書き用句読点の書き方についての規則の説明の根拠にされていることもある


公用文作成の要領 - Wikipedia


そういうわけで、「くぎり符号の使ひ方(案)」ってどの程度論拠として使えるのかなぁという疑問はある。
正式採用されなかったから「参考資料」扱いされているんじゃないの?という。
これがありならば、三省堂の『新しい国語表記ハンドブック』あたりから「国語の書き表し方」を引っ張ってきて反論するのもありではないのか?
新しい国語表記ハンドブックというのは

日本語の表記を、読みやすく、分かりやすくするために、「常用漢字表」「送り仮名の付け方」「現代仮名遣い」の制定を初め、多くの国語施策が行われていますが、この本は、それらが総合的につかめるように編集したものです。内閣告示・文部省告知・国語審議会報告、その他、現代日本語表記の元になる資料を原文のまま収録し、それが、いつ、どんな目的で出されたのかを明らかにしました。
(後略)
『新しい国語表現ハンドブック第四版』 まえがきより引用

こんな内容になっていて、僕が持っているのは1991年発行の4版。そこのp204ページに「くぎり符号の使い方」という項目がある。

  • 「文部省刊行物の基準を示すために編集」された、文部省編「国語の書き表し方」(昭和二五年十二月刊)の付録より転載
  • 文部省国語調査室で作成した「区切り記号の使ひ方(案)(昭和二一年三月)を、簡潔に、分かりやすくまとめたものである。

(三省堂編集所注)

という素性のもので以下はカギカッコについて言及している部分。

「」は、会話または語句を引用するとき、あるいは特に注意を喚起する語句をさしはさむ場合に用いる。


こちらを採用する場合「もしamamako氏の主張する『カギ括弧によって特別な意味を持たせる』が、『特に注意を喚起する語句をさしはさむ場合に用いる』の一種だと解釈しうるならば、この用法はローカルルールではない」と言えるかもしれない。
(義務教育の範囲であるかどうかは別として)文部省作成の資料にそう書いてあるのなら、これを元に公的なルールが存在すると主張することも可能だろう。
ekken氏は義務教育でちゃんと習ったかどうかに限定して論じているけど、amamako氏がこの辺引っ張り出してきて「義務教育で習ってなくても公的資料があるのでローカルルールとは認められない」と主張した場合にはどうなるのだろうか? 「常識」の定義論になる?
ekken氏の使っている「常識」は、義務教育でちゃんと習ったかどうかを問題にしているように「社会や読者の中でどの程度の人が使いこなしているか」という実測値の話なのだが、amamako氏の場合「現代文読解の基礎」「それを理解して読まなければ評論文を読むのは極めて難しくなります」というように、読者に対する要求水準(理想)としての色合いが強いように思える。
この辺すりあわせてくれないと、僕の興味がある方向へは話が発展しなそうだ。


そもそも日本語文章の符号の使い方は畑ごとに大きく異なるため、ある用法が「ローカルルール」ではなく「日本の常識」であると証明するのは結構面倒な話だ。

用法が統一されてない例

教科書 「わたし、気になります。」←会話文の末尾に"。"を付ける
一般出版「私、気になります」←普通の書籍では"。"を付けない方が主流
この辺が統一されてないことから、教育課程部会でこんな発言があったりする。


私自身が国語教育を学校で受けているときに,国語というのは,有名な文章を読み,書いた人の気持ちは何かとか,この主人公の気持ちは何かと聞かれることばかりやっていた記憶しかない。
 大学の話になるが,英語だけで授業を受ける学科に入ったとき,作文の時間に先生が目覚まし時計か何かを出してきて,2日後までにこの目覚まし時計について四つの文章を書くよう指示された。説明文,分析等の4種類の文章。一つの物事を四つの違う視点で考えるというのは,日本の国語教育ではなかったなと体感した。
 国語の力に,文学作品を読むことに加えて,コミュニケーション能力等を加えることが必要だろう。また,質問をしようと思いながら聞く力や文章をつくっていく力が今の国語のイメージにプラスアルファで必要だと思う。
 また,話す力の中に,声の出し方,滑舌,発音といった指導が全く入っておらず,大きくなっても発音があいまいだったり,声が異様に高かったり,非常に説得力もないような人が多いように思う。
 さらに,かぎ括弧や丸の使い方が,多分日本だけ何のルールもないのではないかと思う。小学校のときは,丸とかぎ括弧を一つのますに書けと習った。あるいは,丸を先に書き,次のますに閉じる括弧を書けと習った。しかし,新聞や雑誌は逆で,括弧の外に丸を書く。これが社会に出てからの常識である。アメリカ等では,句読点,コロン,カンマの使い方等は徹底的に習っていて,それが使えない人は学校を出た人とは思えないというレベルがある。日本においても,もう少し統一して教える必要があるのではないか。


教育課程部会(第17回) 議事録:文部科学省

ネット界隈では、三点リーダーと二点リーダー議論の使い方がしばしば議論になったりするし、句点はマルとピリオドどちらを使うかが畑によって異なっていたりして、この辺の文法は「方言」が割と多い。そのため自分の所属する畑の「常識」と日本全体の常識を混同しがちなで、注意が必要な分野だったりする。
そもそもくぎり符号の使ひ方が正式採用されなかったことが理由で、実は統一ルールが存在しない可能性とかもありえるのだろうか
この辺、真面目に論考しようとしたら、専門家以外は手に負えなくなってくる気がしてならない。
僕は日本語文法の統一ルールの有無とその周知方法に前から興味があって、現在のスタンダードな日本語がどのようなもので、それにはNHKの影響がどの程度あって、公教育の影響がどの程度ある。最近はネットの影響がうんぬん、みたいな話を期待しているのだが、たぶんそういう話にはならなそうだ。