情報の海の漂流者

web上をさまよいつつ気になったことをつぶやいています。

瓦礫がそこにある意味

という記事の後半部にある被災瓦礫の広域処理の話を読んだことを機に今までずっと考えてきたことが言語化できた。

災害風景への曝露

二次大戦を経験した人と一緒にいると時々「戦争の時のつらい記憶を思い出すのがいやで、終戦記念日前後はテレビをみない」という話を聞くことがある。
終戦後何十年たっても当時のことを思い出すとつらい。終戦記念日の報道を見ていると自分の意志と関わりなく記憶を蘇らせてしまうのでそれがしんどいという。
この手の記憶の問題は早期に克服できる人もいれば、何十年も引きずってしまう人もいる。

震災がれきに囲まれて生活することの意味

日常生活をおくる場に、震災の爪痕が生々しい形で残っている。そこで普通に暮らしているだけなのに毎日それを見ながら過ごさなければならない。
そんな日々を過ごすことが、ある種の被災者にとって精神的な負担になっているのではないか?
耐性がある人はともかく、苦手な人はしんどいのではないのか?
ただ暮らしているだけで心にボディーブローを受け続けていないのか?
がれき処理問題について考える時、この疑問が僕の心から離れない。


一昔前の災害支援では「つらい記憶は心の中にとどめるよりも早い段階で口に出したほうが良い」という考え方があった。
阪神大震災の時海外のグループがこの考えに基づいて支援を行い、その成果を応用してアメリカの同時多発テロ事件の対処も行った。
その結果、心の自然な回復段階を無視して外部から被災時の記憶をつつくと、激しいフラッシュバックを引き起こし心身に悪影響を及ぼす恐れがあることがわかってきた。
そうした動きを受けて2007年、IASCのガイドラインのすべきことではないことの項目に「紛争や自然災害への曝露後の初期介入として、一般市民を対象とした単発・短期間の心理的デブリーフィングを提供しない。」という一文が加わることになった。

このガイドラインは短期的な影響――特に初期対応――についての記述であるが、中長期の話についても、心の整理が出来る前の段階で被災時の記憶を強制的に思い起こさせる行為を推奨する人はあまりいないようだ。


つまり僕はがれき処理というのは、復興問題や経済問題であると同時に人道問題という側面があるのではないかと考えている。
早く処理すればその分だけ、心が受けるダメージが減り、被災ストレスを軽減する効果があると思っている。
がれき処理を並列化することにより、処理速度を向上させる広域処理はその点で魅力的だ。


政治問題や社会問題には様々な観点があり、どれを重視するかで結論は変わってくる。広域処理が絶対に正しいという訳ではない。
地元経済を考えたら10年20年かけても地元で処理したほうが良いというような意見もあるだろう。
しかしそこに暮らしているのが被災した人々であることを思えば、処理速度が早くなることに意味はあると思っている。